あなたは悟っていますか?
「幻想だとわかっているのなら、あなたは悟っています。ですが、もし自分は悟っていると思うのであれば、あなたは幻想の中にいます」。
_______H.W.I. プンジャ(別名パパジ)
いろいろなオンラインでの集まりで、私は悟った、と言う人をしばしば目にします。そうした場面を見るたびに、私の生徒さんたちは誰もそんなことを言わないようにと、願わずにはいられません。自分は悟ったなどと公言すること自体、無知を宣言しているようなものです。
誰しも、自分が完全に空っぽになっているかどうか、またいつ空っぽになるのかわかりません。そして、その空っぽの状態こそが、『悟った』ことを最も根源的に表しているのです。
無意識に実行されるプログラムがすべて削除されていますか?あるいは、人生がもたらす様々な出来事に対し、いまだにネガティブな態度で反応するのでしょうか?
これまでに起きた出来事の原因や結果に、まだこだわっていますか?あるいは、真我が新しい道を指し示してくれたら、すんなりと進行方向を変えて進むことができるのでしょうか?
物理的・身体的に不快・不愉快な状況にあってもOKが出せる、そんな成長段階に私たちはいるのでしょうか?
自分は悟ったと考えているとして、テレビのニュースキャスターが聞きたくもないニュースを伝え始めたとたんに暴言が口をついて出始めたなら、まだ悟っていないことを表しています。
誰かが言っていることに同意できず、自分の見解をどうしても聴いてもらわなければならないとこだわっていることが、エゴの視点から生まれた二元性という幻想を観る、また別の機会となります。なんらかの特定の結果に力を注ぎ込んでいるならば、これは明らかに悟りの状態ではありません。
私はかつて、ある聡明なラビ(ユダヤ教の宗教的指導者)と、インド人の女性グルの対談に参加したことがありました。ラビの発言は非常に明瞭で、博識であることは一目瞭然、しかも、話す時はずっと謙虚でした。一方、彼女は一見腰は低いのですが、ラビの言うことに対しいちいち反駁し、彼よりも上に立とうとしているように見えました。競争的な態度は見るからに傲慢で、どんなに美しいサリーをまとっていても、一見チャーミングに見えたとしても、彼女自身が悟ったと主張するほどには、悟ってはいないことは明らかでした。
真実のセルフ、真我は謙虚です。物事を受け入れ、親切で、静かです。他の人を貶めることで、自分をよく見せようとすることがありません。
インターネット上で自分の悟りをひけらかしている人たちの中にも、悟りとはかけ離れた言動をしている人たちもいます。興味をそそられ、そういった人たちがスピリチュアリティのさまざまな側面について、自分の見解の正当性を証明しようとする溢れるほどのテキストを追跡調査したことがあります。そこでの印象は、彼らは承認を求め、注目を求め、他の人への反駁、批判が多く、自分は特別であることを強調し、特別に扱われることがふさわしいと思っているように感じられました。覚醒は、こうした態度を生み出すことはありません。尊大なエゴだけがこうした態度を悟りと解釈します。
覚醒とは、実際には普通であることに気づくことです。つまり、私たちはみな似ていて、核心では全く同じであると気づくことです。悟りはなにかに到達することは違いますし、他の人たちに一目置いてもらうためのトロフィーでもありません。
悟りは覚醒と同じではありません。自分が本当は誰なのか、何なのかに気づくことが覚醒です。空という悟りに必要な手放すという段階の始まりを、覚醒と呼びます。覚醒の瞬間に明らかになった気づきがあり、その気づきにそぐわない信念、態度、反応が排出・除去されること、このプロセスのことを私は「覚醒のディープニング、覚醒の深化」と呼んでいます。
このディープニングは時間の経過とともに起きるものです。一生続くかもしれません。私たちが自分自身を観察し、人生がもたらすものに対して、愛情のない考え、感情、行動で反応するのをやめるにつれて、深化は発展し続けます。ことあるごとに、自分だけでなく、すべての人に最高の利益をもたらさないものを手放すという選択をするたびに、私たちはエゴの道を排除し、私たちの愛する真の性質(私たちの真我)が完全に存在することを可能にします。
私たちの真我(幻想がすべて取り除かれた後に残るもの)は、判断しません。批判したり、比較したりしません。常に、そしてどんな状況であっても、純粋で無条件の愛と真実をもたらすだけです。真我とは私たちの悟った部分の性質であり、愛と光の意識なのです。
人類は、なぜいまだに戦争をするのでしょう。それは覚醒した人の数がまだまだ十分ではないからです。あなたは、あたらしい道を切り開くことができます。覚醒し、そして他の人が覚醒するのを手助けすることができます。そして、私はあなたがそうできるよう手助けするためにここにいます。
Stillness-静けさと目覚めた意識について
"Stillness-静けさ"は、目覚めた人を表すのにしばしば使われる言葉です。静けさとは、ベッドとかソファーで横になっている時間が長くて、めったに身体も動かさないという意味なのでしょうか。あるいは瞑想している時間が長いということなのでしょうか。目覚めた意識で生きている中でこうしたふるまいを見せる人たちもいるかもしれませんが、静けさ の核心を表すには的外れなものです。
目覚めた人の” Stillness-静けさ”とは、肉体的な動きや何らかの特別な努力とは無関係です。むしろそれは精神的な在り方や 反応の質なのです。人として経験することに反応したり考えたりすることなく、単に見るという能力のことなのです。つまり、身体の周りで何が起きていようと内面が静かな状態、言い換えれば、真実の自己、真我として生きている状態と言ってもいいでしょう。
内的な静けさの中で存在するという生き方が、目覚めた瞬間にすぐにできるのかというと、そういうわけにはいきません。私の体験ですが、すぐさまエゴのマインドが活発になりました。私の肉体としての経験を長年コントロールしてきたエゴですから、慣れ親しんだコントロールを失うのを恐れ、騒がしくなったのです。「静かなマインド」を追い求めていたはずの私でしたが、いつも以上にたくさんの思考が湧き上がって来ました。静かなマインドは” Stillness-静けさ”への入口です。静かなマインドになど決してさせまいとして、エゴがどのぐらい必死になるか、ひとつの例を紹介しましょう。
これも私の体験ですが、高校でも大学でも、私にはテスト勉強をする習慣がありませんでした。なぜかというと、私は視覚的に記憶するタイプだったので、答えとなる本の章やページ全体を視覚的に記憶することができたのです。しかし、その素晴らしい能力も、自動車事故をきっかけに失われてしまいました。その事故で、私は身体ごとバックミラーに突っ込んでしまい、前歯を折り、額にも深い傷を負いました。しかしながら、私の視覚的記憶の能力消滅したことはそれ以上の大きな損失となりました。
目覚めの数日後、かつての視覚的記憶力が消えて30年以上たっていたにも関わらず、私のエゴが私に使うようにと再びイメージを提供し始めたのです。それはたまたまラマナ・マハルシ のイメージで、多くの人たちがそのことについて“素晴らしい”と賞賛してくれるような出来事でした。しかし、こうしたことも” Stillness-静けさ”の妨げ にほかなりませんでした。目覚めの前に体験していた「至福の素晴らしい感覚」でさえも、静寂を妨げるものだったのです。そうなんです。私が言っているのは、どんな思考 や感情も、善悪に関係なく、不快なことも、楽しいことも、ネガティブなものでも、どうでもよいことでも、それらが起きるがまま、来るがまま、そして去っていくがままにしましょう、という事です。なぜなら何であろうとそれに執着していると、それが” Stillness-静けさ”を邪魔することになるからです。
そんなわけで私は、 ”自分に問いかけること―真我探求”を使ってすぐに静かなマインドに戻るということを自分に課しています。何をしているかというと、常にエゴに対して「エゴが提供しようとしている思考に興味を持つ”私”はいませんよ」と通告しています。真我探求が今ではすっかり私の日常生活の一部になっています。思考が現れたなと思ったら、いつでもこの真我探求をします 。これは どんな思考や想念が湧き上がっても、それらを自然に解消するツールです。湧き上がってくる思考が徐々に少なくなるに従い、思考と思考の間のスペースが大きくなっていき、最終的には思考が全て止まっていることに気づきました 。
どうやってそれがわかったのでしょう か?ある出来事によってわかったのです。それは2011年、日本に戻ってくるちょっと前、ウルグアイ で起きました。
シャワールームのドアを閉めたときのことです。ドアのパネル枠にガラスがぴったりはまっていなかったのでしょう。突然ガラスが割れ、破片が飛び散りました。ガラスの大部分は枠に残っていましたが、飛び散った破片の一部が私の片方の前腕、両手の甲、両足の甲に突き刺さり、ほんのわずかですが、お腹にもいくつか切り傷がありました。夫のジャコモ が音を聞きつけ、すぐにやって来て素早くタオルを床に敷き、私がガラスの破片を踏まないようにしてくれました。
床にはガラスの破片が散らばり、私は 血まみれでした。止血の救急処置をしてもらいながら、私は病院に運ばれました。周りは大騒ぎだったのですが、その間、なぜか私にはなんの思考も感情的な反応もなかったのです。病院に運ばれる前も、運ばれる間も、傷口を縫ってもらった後でさえも、です。覚えているのは静けさだけ、その静けさの中にいる自分の存在だけでした。あらゆることがただ現れ展開しているのを目撃していただけでした。
2021年の今、何かが起きても、それに対するリアクション・反応として、特別な思考や感情が湧き上がることはめったにありません。こころも身体も一貫して平和で静かです。起きたこと、あるいは今起きつつあることに対して心配している人が「誰も」いないかのようなのです。ひょっとしたら、パパジがよくおっしゃっていた「つまるところ、何も起きてはいなかった 」ということなのかもしれません。なんであろうと目に見えるものはやってきては、去っていくものです。それが起きたその瞬間にちょっと気づくだけです。すべては” Stillness-静けさ”に帰すのです 。
” Stillness-静けさ”の中で生きることに心惹かれる方に、適切でしかも効果的なテクニックとツールを私は提供できると考えています。必要なのは、” Stillness-静けさ”をあなたのゴールにすることと、揺るぎなく責任を持って深く関わることです。
早速始めたい方はどうぞ連絡をください。
愛を込めて
アルーナ
目覚めとは…
霊的な目覚めとは、こんな風にいうことができます。
- 意識が”私”から”私たち”へと変わる
- 真実と真実でないものを識別できる
- 無条件の愛と思いやりにこころを開く
- 抵抗しようとする意識が緩む
- 今この瞬間に没頭する
- エゴによるコントロールを手放すことができる
- マインドを鎮めることができまる
- 求めようとしない
- 心配しない
- 自由で、本来の姿に正直でいられる
- ツールを使い、常に意識して覚醒を深めていくプロセスがある
普通、霊的な覚醒とは身体とマインドが瞬間的に変わる身体的な体験なのだ、と言われます。この体験は覚醒ではありません。”気づきの瞬間 ”というのは、単に始まりであり、その後もあなたの内なる真我への気づきを目覚めさせるプロセスは続いていきます。そのプロセスを通じて、エゴがささやく自己像をどんどん消して、ハートを開き、霊的にイキイキとした生き方ができるようになるのです。
目覚め、という身体的な体験は人それぞれ違いがあります。しかし、ここでも覚醒し続けていくプロセスはとても重要で、軽視されるべきものではありません。覚醒するために形式だった準備が必要かどうかは、過去生で、あるいは現生での人格の成熟度に依存します。いずれにしても、プロセスに対する理解度が重要です。
腕の立つ経験豊かな教師は、拡大した意識をサポートしてくれる大きな助けとなります。真正の覚醒した教師が、あなたを導き質問に答えることはさらに良いことで、プロセス全体をフォーカスしスピードアップします。
『真我 を解放するコース』では、覚醒についての理解を助け、覚醒そのものと覚醒を深めていくディープニングのためのテクニックを提供し、神聖な恩寵(おんちょう)のエネルギーが、真我を直接体験できるようサポートします。霊的探求者はこのためにインドに行ったりしますが、インドへ行ってもなかなか見つからないということはよくあることです。今では、それがこの日本で、そしてオンラインで可能となったのです。家にいながら、会社を休んだりする必要もありません。こんなふうに楽に費用も少なくできるなんて、今までにないことでした。
次回の真我解放による覚醒コースのスタートは、8月11日午後7時、Zoomで行う予定です。
このコースは16回のクラスと個人セッションからなり、覚醒と覚醒を深めるの に必要なことすべてが含まれています。英語で行われますが、通訳がつきます。
お申込みは氏名、Eメールのアドレスを記入の上、advaitajapan@gmail.comにメールをください。参加費は200,000円です。8月5日までに下記へお振込みください。
新生銀行新宿支店
普通口座
550 0404 328
REA BYERS
分割払いも可能です。ご相談ください。
なぜ私たちが肉体を持っているのかというと、それは霊的に目覚めるためです。霊的な覚醒での輪廻転生を終わらせることができるのです。あなたの魂があなたに望んでいる平和で幸せで心配のない人生を送るために、今このチャンスを逃さないでください。
世界に光を運ぶ人になりましょう。そのためにあなたは身体というものを選んだのです。
愛を込めて
アルーナ
無私の奉仕者:Seva とは
1985年、初めてチャネリングを始めた時、交信していたガイドが私に伝えてくれたある情報を私は一度も忘れたことはありません。その時私が指示されたのは、人が輪廻転生のサイクルをきっちり終わらせるための4つのカテゴリーでした。
- カルマを完了させること
- 現在の人生でのレッスンをひとつずつ学ぶこと。
- 男性性と女性性のエネルギーのバランスをとること。
- 無私無欲の奉仕を生きること。
このブログでは特に4番目のポイントを取り上げ、話したいと思います。
私のチャネリング能力は、「私はどうしたら奉仕することができるか、教えてください」と何か月か祈った後にやってきたので、私としてはチャネリングをすることが奉仕なんだと受け止めていました。しかし、数年して上記の4つのリストを受け取ってからは、自分だけの利益や都合という考え方とは無縁の無私の奉仕についてより多くのことを学んだので、それを今日は皆さんにシェアしたいのです。
Seva
これはサンスクリット語で、自分自身に仕える前に神聖なるものに奉仕するという意味です。選択がある時、私たちはエゴの願望を満たす方を選ぶのでしょうか、それとも神聖なるものに奉仕する方なのでしょうか。自分の都合に合っている奉仕なのでしょうか、それともすべての人にとっての善に一致している奉仕なのでしょうか。
ここで覚えておく必要があるのは、他の人たちに奉仕するには犠牲が必要だ、なんてことはないということです。ここで言っている奉仕とは、自分自身だけを満足させるというのでなく、神聖なるもの(生きとし生ける者すべて)に対して役に立つことを選ぶという意味です。「私がこれからしようとする行動は神聖なるものを喜ばせることができるだろうか、それとも自分を喜ばせるだけだろうか」と常に質問してみるといいです。神聖なるもののためだけに奉仕した時には、その結果として出てくる答えは自分としては不明瞭に思えるかもしれませんが、それでも自分のためになっています。
私がした奉仕の体験がいい例です。パパジと共にLucknowに滞在している間、パパジの書店とカフェでボランティアとして本を売り、食事を運んでいました。また、サットサンに参加していた人が急病になった時などは病院へ付き添うなど、何日もサポートするというのも奉仕の一環でした。
この40年、動物愛護団体も含め、いくつかの慈善活動を物理的にも財政的にも継続的に援助しています。また私が重要だと思うスピリチュアルな教師のサポートも何人かしています。NovicaやBeads of Lifeといったアーティストたちの活動にも、ボランティアとして、または寄付などを通してサポートしています。学びたいけれど、受講料が払えないという真剣で真摯な生徒さんへの配慮も、私の大事な奉仕です。
この Seva、献身的奉仕をする理由はいくつもありますが、一番の理由は奉仕する理由を全く必要としない点です。ただワンネスを理解しているからという理由があるだけです。
そう断言した上で、無私の奉仕があなたの助けになる点もいくつかあります。
- 奉仕をしている時間は、それが何分であろうと、何時間、何日であろうと、あなたはエゴの声に囚われずに、エゴには後部座席に座ってもらい、エゴの代わりに真実のセルフが車を運転してくれるので、あなたのスピリチュアルな成長が加速します。
- 誰かのために奉仕をする時、その人にとってのリアリティーを実際に共有することになるので、あなたのハートが開き、あなたの慈愛の力を強化します。そうやって、生きとし生けるものすべてを愛する真我が延長していきます。これがあなたを通しての創造ということです。
- 献身的な奉仕をしている間、あなたは自分の中心から常にエゴを外しているので、矛盾のないマインドになっています。ここから覚醒の瞬間へと開花する可能性があり、お金では買えない贈り物です。
- 定期的な奉仕は、覚醒意識を深めていくプロセスを強化するベストな道です。
- 本物のスピリチュアルな教師に奉仕を提供することは、あなた個人が行動した時点であなたの助けになるだけでなく、その先生が世界に差し出す恩恵を通して、あなたの小さな奉仕が世界にまで増幅されるのです。
あなたは神聖なるものにどのように奉仕することができますか?
助けを必要としている人を助けることによって、奉仕できます。
その人たちに認めてもらいたいからではなく、あるいはお返しを期待しているからでもなく、報酬などという考えは一切なしに、真にその人たちをサポートしたいと望んで奉仕するということです。神聖なる人たちと言う時、そこには家族、近所の人たち、あなたの集まり、あるいはコミュニティーの仲間たちが含まれます。男女を問わず、子供、動物、自然やあなたがいる環境、友人、知り合い、出会った見知らぬ人でもあります。これまでに出会った人たち、まだ会ったことのない人たちかもしれません。自然災害を受けた地域の被災者かもしれません。あなたの霊的な成長をサポートするスピリチュアルな教師やガイドも含まれます。「私」のためではなく、「私たち」のために行動している時はいつでも私たちは神聖なるものに奉仕しています。これがワンネスにつながる側面でもあり、私たちはもはやどのようにしたらいいのかを迷う必要もありません。
すべてがとても具体的なのです。
◆これからのサットサン◆
●6月 6日(日)10:30 Zoomにてサットサン(通訳が付きます)
Peatixに申込み、支払後にIDをお知らせします。
●6月 20日(日)10:30 Zoomにてサットサン(通訳が付きます)
Peatixに申込み、支払後にIDをお知らせします。
●June 13th (Sun) 10:30 at Zoom SatSung for English speakers
Apply for Peatix and we will inform you of your ID after payment.
フラストレーション(挫折感)はやってくる、でも・・・。
あらゆることはひとつの源から生じているのですから、地球温暖化やコロナ禍はもちろんのこと、インターネットやコンピューター、そしてそれらにつながっている事柄もすべてこの源に通じているに違いありません。正確な説明ができませんが、なんらかの形で全部つながっているに違いないのです。
私自身の人間としての体験に関していえば、私が望むように、または期待しているように物事が運ばない、あるいは望むとか期待する以前に、最初から全くうまくいかない時などがあります。こうした状況に突き当たった時、マインドは穏やかなのですが、身体が緊張したり、また内側から今にも爆発しそうに感じたりするときもあります。
たとえば、昨年12月には、パソコンのハードドライブが壊れてしまい、大急ぎで買い替えなければならなくなりました。私はキーボードが英語仕様のパソコンが欲しかったのですが、手に入るまで3週間ぐらいかかると言うではありませんか。仕方ありません、夫が家から一番近いアップルの正式ディーラーまで出かけて行き見つけたのは、キーボードは英語と日本語対応のものでした。しかし、新製品ということもあり、買うことにしました。私たちとしては、最新の一番性能の高いモデルを手に入れたと思っていたのですが、それは思い違いでした。アップルの3年有効の品質保証書がついていたので助かったと思ったのですが、よく読んでみたら、パソコンを買った店舗でのみ保証が有効だったのです。
購入して2、3週間経った頃ですが、新品のパソコンなのに黒いスクリーンが点滅し始め、しかもオーディオがうまく機能しなくなったのです。仕方ありません。私はこのパソコンを持って、再び買ったお店に行きました。そこでも事はスムーズにいきませんでした。英語を話す唯一の店員さんは忙しくて私を助けてくれません。「来週の月曜か金曜に来てください」と言うではありませんか。次の日が日曜日で、サットサンの予定が入っていましたし、夫のジアコモと私は電車で一時間をかけ、最も近い正式なアップルストアへ行って、パソコンを見てもらうことにしました。チェックはほぼうまくいったのですが、それでもまだ問題がありました。夫と私は新しいM-1モデルを買ったと思っていたのですが、実際にはそうではなかったと、このアップルストアでわかったのです。当然ことながら、日本では店舗への返品に関してかなり制限があります。返品手数料700ドルと、さらに新しく買い替えるパソコンの代金も全額支払わなければなりません。どうやらこのまま、誤って買ってしまったこのパソコンと付き合っていくしかなさそうです。だって、お金、これ以上出したくないですもの! やってきたのは挫折感!!!
こんなこともありました。Zoomは私にとっても仕事する上でとっても素晴らしいツールです。しかし、うまく機能する時もあれば、機能しない時もあります。先週の日曜日がそうでした。Zoomがつながらず、サットサンの参加者たちはみな待合室に足止めでした。結局、Zoomの新しいアカウントを作り、2時間後の開催にスケジュールし直したのですが、ここでもまた開くことができず、結局延期しました。次回までにはZoomをちゃんと使えるようにするつもりですが、ここでも挫折感!!!
また、こんなこともありました。アメリカにいる私の孫(男の子)は日本のコンピューター・ゲームが大好きです。そこで、日本のオンラインストアでゲーム関連の商品を買うことにしました。ただ、このストアはアメリカへの配送を扱っていないので、孫は私に商品を送ってくれるようにと頼んできました。箱3つです。通常であれば、一つにまとめてさっと送るので、大した仕事ではないのですが、コロナ禍のため、海外輸送便が少なくなったり、海外輸送に関するアメリカの規制が厳しくなったりで、日本の郵便局もそれに応じ、新たな手順が導入されたのです。
今日、私は特別なラベルに宛先を印刷してもらえるよう、日本郵政サービスの会員に加入しなければなりませんでした。手書きの住所は、もはや受け付けてもらえないのです。しかも、宛名ラベルはレーザー・プリンターでプリントアウトしなければならないのですが、家にはありません。ですから、明日、私は大きな箱を持ってバスに乗り、隣町にある大きな郵便局まで行かなければなりません。スマホに入れたアプリを使って、郵便局のプリンターでラベルをプリントアウトするのです。それに加えて、たった1.2キロちょっとの荷物なのですが、このサイズの箱だとアメリカへは船便しか使えず、到着先のカリフォルニアに着くまで3か月から6か月かかると言うのです。またまた挫折感!!!
こうした出来事は、一度にひとつずつ対処すれば、それほど大変なわけではありません。ただ深呼吸し、身体を動かし、挫折感のエネルギーに体を順応させてあげましょう。挫折感はだんだん収まり、それ以上その状況について考えるのを止めれば、挫折感は消えて行きます。「こんな感情を感じていても自分はOKかしら?」という問いかけは、自分自身へのよい質問です。感情を感じ、それを解放する手助けになるか、あるいはそう問いかけることで、あなたのエゴのマインドが降参して感情を受け入れる状態になるでしょう。
複数の出来事が同時に起きてあなたをイライラさせるときも、解決法は同じです。ただし、人生で体験しているストーリーの数々が積み重なっている場合、リラックスし、それらを手放すというのはちょっと難しいかもしれません。そう、一日か二日ぐらい、その落ち着かない感情にフォーカスし、手放そうという意思を持つ必要があるかもしれません。それでも、そうした感情は必ず消えて行きます。個人的なストーリーがそうであるように、感情もまたいずれは忘れ去られるものです。それらをテストだと思ってみてください。真実の自由を手にしたいと願うあなたの決心のレベルを測っているのだと思ってみてください。深呼吸を続けてください!だんだん上達しますから。忍耐強く練習すれば、そうした感情もほんの数秒、数分しか続かないようになります。私自身、そんなふうに何年も努力したからこそ、今の私にこうして平和が宿っているのです。
今日、紹介したエピソードが、皆さんのフラストレーションの克服にも役に立つことを祈っています。
愛をこめて
アルーナ
目覚めても、まだ人間であることには変わりありません
覚醒したら人生がどんな風に変わるのだろうと思いをめぐらせているとしたら、私の体験ですが、これからお伝えする見方もどうぞこころに止めておいてください。
- 覚醒しても、あなたがまとっている肉体はまだ背が高かったり、低かったり、太っていたり、痩せていたり、丈夫だったり、虚弱だったり、覚醒前と同じでしょう。ただ外見は少し変化して見え、 気持ちは幸せで、その幸せはまるで柔らかな光を放つ電球のようにあなたから輝き出るようになります。
- 感情に左右されることが少なくなり、気持ちが安定します。感情が現れたとしても、それを感じ、そして手放すことで感情は素早く消えていきます。
- マインドのおしゃべりを観察することができようになります。真我探求を通して、またそのおしゃべりに注意を向けないことによって、ちょうど瞑想をする時のように、おしゃべりを少なくすることができるようになります。
- 自分自身と周りの世界への理解が深まり、それが緩やかにさらに広がっていきます。
- 人生は続きます。あなたは肉体として再びあなたの物語に戻り、ドラマは引き続き展開し、あなたが気づいた真実を実際に生きる数々の機会をもたらします。
- もし覚醒があなたにスピリチュアルな才能をもたらすとしたら、それはあなたの周りにそれを必要としている人たちがいるからなのです。ただし、そうした才能や能力は、それを使って提供する奉仕の形があなたの持って生まれた使命に含まれている時にのみ、発生します。
- 覚醒があなたを「特別な人」や超人、ミラクル・ワーカーや教祖的存在にしたりすることはありません。覚醒はたゆまなく続く意識の拡大の始まりであり、現在の人間としての体験に十分に統合されなければなりません。
- いずれ謙虚さこそが最も価値があるとはっきりわかります。自分の考え、想念に気づいていましょう。自分が考えていることが「特別性」を主張していたら、それは恐らく頭で考えてコントロールしようとするエゴの試みである可能性が高いです。
- 人生がより楽に進んでいきます。リラックスしているので、どんなチャレンジも受け入れ、取り組むことができます。
- 覚醒後も、人生には大小様々なチャレンジが起きます。覚醒した意識をさらに深め、定着させていくために、そうしたチャレンジに引き続き取り組む必要があります。
サットサンの目的
サットサンはサンスクリット語です。
サットは“真実”、サンは“共に集う”という意味です。霊的な人々の間では、サットサンは“真実を探求する人々のグループ”または“真実とつながる人々のグループ”を指します。一般的には、このサンガと呼ばれるグループでは、霊的に覚醒した師が、個人的にも集合的にも真実を認識するという目的のために、グループのメンバーが内面にフォーカスできるよう導きます。
サットサンに参加する人は単なる“霊的観光客”、つまり不思議な現象や“あの世的な”体験に夢中になって教師から教師へと渡り歩く人たちではありません。むしろ、“地に足のついた誠実な人たち”で、グループと一緒に学びながら、そのグループならではのエネルギーや智慧をサポートする働きもしています。
これは、真実の探求者の多くに共通することです。なぜなら、彼らは他の人たちとは異なると感じていますから、自分たちの価値観や見方を共有できない人たちとは、もはやなじむことができないのです。真実や“本物の人たち”を熱望する気持ちが内面から湧き上がり、同じものを求める人たちを見つけたいという気持ちにさせるのです。
なかには宗教に行き場所を見つけ、そこで同じような信念を持つ仲間を見つける人たちもいます。しかし、“成熟した”真実の探求者(前世から持ち越してきた拡大した意識の人たち)は、通常、宗教の教義では満たされません。それもまた、彼らにとって全面的には共感できない見方のひとつでしかないからです。
彼らの真我がサットサンを切望しているのです。つまり“ただひたすらに真実だけ”を望む人たちが集まり、その集まりの中で真実が見つかるというコミュニテイーを望んでいます。また、そうした人たちは“他の人たち”がどう思うか気にすることなしに、“丸ごと本物の自己”で一緒にいられる友人も欲しています。
私が東京で開催しているサットサンは、もちろん怪しい集いではありませんし、実際に出かけて直接参加しなければいけない場所でもありません。あなたがコミットしなければいけないワークもありませんし、継続的な会員料金も発生しません。受けなければならないテストもなければ、署名しなければならない契約などもありません。自由に出入りしていただける場所です。
その一方で、定期的にサットサンに参加することで得られる利点(教え、霊的恩寵のエネルギー、仲間意識、サポートをメンバーと分かち合うこと)は黄金にも匹敵するほどの価値があり、あなたの前に完璧な霊的覚醒への道を開いてくれることでしょう。
愛をこめて、
アルーナ
Zoomによるサットサン日程
日本語―9月6日 10:00am 日本時間 申し込み先http://ptix.at/OUhzn7
9月20日 5:00pm 日本時間 申し込み先http://ptix.at/2SFLKv